人獣共通感染症 連続講座 第56回
動物バイオテクノロジーの医療への応用の進展


霊長類フォーラム:人獣共通感染症(第56回) 10/26/97

 私の所属する日本生物科学研究所が発行している月刊ニュース「日生研たより」に2回にわたって上記の話題についての解説を書きました。内容的には本講座第51、52回のものと、かなりオーバーラップしますが、全体像を理解していただくために、転載します。
 なお、前回のオーストラリアのオオコウモリの和名については、何人かの方からご教示いただきました。
Pteropus alecto(クロオオコウモリ)、P. conspicillatus(メガネオオコウモリ) 、P. poliocephalus(ハイガシラオオコウモリ)、P. scapulatus(オーストラリアオオウコウモリ)だそうです。

1。クローン羊の技術開発の背景
 ネイチャー2月27日号に掲載されたクローン羊のニュースは社会に大きな衝撃を与え、マスコミでも大きくとりあげられてきている。しかし、その論点は人への応用の危険性に関するものが大部分であって、この技術が研究された背景に動物を製薬工場とする技術および臓器移植用豚の開発が存在する点についての解説はあまりみうけられない。
 クローン羊はBiotechnology and Biological Science Research Council (BBSRC) Roslin Instituteと、同研究所の敷地内に設立されているベンチャーPPL Therapeuticsの共同研究による。BBSRC(バイオテクノロジーおよび生物科学研究協議会)は、 農漁業食糧省の管轄の研究協議会であるAgricultural and Food Research Council (AFRC)(農業および食糧研究協議会)が1994年に改名されたもので、これにより、この協議会傘下の研究所での研究は農業部門にとどまらずもっと幅広く生物科学全般を対象とするものとなり、農学分野と医学分野が密接に連携できるようになって きた。1995年にBBSRC Institute for Animal Health がコンプトンの敷地内にジェンナーワクチン研究所を併設し、人体用ワクチン開発に取り組むようになったのも、AFRCのBBSRCへの改組をきっかけとしたものである。
 動物工場は医薬品蛋白の遺伝子を羊、山羊、牛、豚などの乳腺で発現させて、乳の 中に医薬品を作らせる技術である。すなわち、遺伝子導入家畜(トランスジェニック 家畜)が製薬工場となる。一方、臓器移植用豚は後述するように、人の補体遺伝子を導入することにより異種臓器を排除する超急性拒絶反応を回避させようとするもので ある。これもまた、トランスジェニック家畜の利用である。
 すでにトランスジェニックマウスでの膨大な研究蓄積から明らかになっているが、導入遺伝子はかならずしも世代を通じて安定に伝えられるとは限らない。動物工場、異種移植いずれにおいても、それぞれの目的に適した導入遺伝子発現を安定に示す、すぐれた品質の家畜を大量にしかも短期間に繁殖させることが重要である。その目的にもっとも適したものとして、体細胞のクローニング技術が取り上げられたのである。Roslin Instituteでの生殖生物学の研究分野とPPLの動物製薬工場の技術開発がクローン羊の技術開発の背景に存在する。

 クローン羊の作製にあたったPPL Therapeuticsは、現在は動物工場の分野に取り組んでいるが、異種移植用の豚の分野にも進出することを表明している。クローン羊の作製は、基礎生物学としての重要性だけでなく、動物工場、異種移植といった動物バイオテクノロジーの医療分野への基盤技術としてとらえなければならない。
 体細胞クローニングの技術は、動物バイオテクノロジー分野でもうひとつ新たな展開につながる可能性を示している。それはノックアウト家畜の作製である。ノックアウトマウスが遺伝子機能の解明と疾患モデルの分野で新しい展開をしていることは衆知のとおりである。遺伝子をノックアウトするためには胚性幹(Embryonic stem: ES)細胞が必要であるが、ES細胞ができているのはマウスだけで、家畜に関しては世界 各国で長年にわたって大きな努力が払われてきているが、いまだに成功していない。
 体細胞クローニングでは、胎児や乳腺の細胞を試験管内で培養したのちに、核を除いた未受精卵と融合させて子宮内に移植する。これまでES細胞で行われていた目的遺伝子の破壊のためのホモロガス・リコンビネーションは体細胞を試験管内で培養している段階で行うことが可能となった。ES細胞なしでノックアウト家畜を作製する技術の基盤ができたといえる。
 体細胞クローニングの技術のもうひとつの展開は、トランスジェニック家畜作製への応用である。従来のような受精卵へのマイクロインジェクションの代わりに、培養体細胞への外来遺伝子の導入によるトランスジェニック家畜の作製が可能となったのである。これは、条件設定の困難な受精卵への導入よりもはるかに計画的かつ効率よい導入法として期待される。

2。動物製薬工場
 動物の受精卵に医薬品蛋白遺伝子を導入し、乳腺で発現させて乳の中に医薬品を生産させる技術が急速に進展している。Roslin Instituteでは1991年に、α1 anti trypsin (AAT)を生産する羊が生まれ、Tracyという名前がつけられた。これが最初の動物工場である。BBSRCの理事長Tom Blundell教授が2年前に在日英国大使館で行った講演によれば、Tracyは1000万ポンドでベンチャーに売られ、バイオテクノジーが産業に結びついた成果の代表例であるとされた。Tracyの子孫が現在約300頭となり、その乳から製造されたAATは、後述のように今年から臨床試験に入っている。
 現在、動物製薬工場でもっとも活発な開発を行っているのはPPL TherapeuticsとGe nzyme Transgenicsである。前者の研究施設およびパイロット工場施設はエジンバラのRoslin Instituteの中に設置されている。また、米国バージニア州 Blacksburgにも研究所が設立されていて、ここでは牛、豚、ウサギを用いた製薬工場についての研究を行っている。一方、Genzyme Transgenicsの研究所はボストン郊外にあり、ここでは山羊を用いた製薬工場の開発研究を行っている。筆者は昨年、これら3カ所を訪問する機会を得たので、その際の情報も加えて現状を紹介したい。
 1)動物工場の利点
 血液製剤によるHIV感染、下垂体由来成長ホルモンによるクロイツフェルト・ヤコブ病感染にみられるように、人体の組織・成分由来の薬剤は人の病原体に汚染している危険性がある。この解決方法として、遺伝子工学による製剤に切り替えられつつある。これまで用いられてきたのは、主として大腸菌のような細菌および哺乳動物細胞を宿主として医薬品蛋白を発現させる方式である。動物工場は、その宿主を動物の乳 腺に変えたものである。牧場が製薬工場になったといえる。
 動物工場の最大の利点は細菌や哺乳動物細胞を宿主とする場合と比較して、初期投資、生産コストいずれも非常に安くすむ点である。大規模なタンク培養の設備等は不要で、羊や山羊の通常の飼育施設で生産は行われている。
 収量はAATの場合、乳1リットルあたり10グラム前後、年間に直すと1頭の羊から10キログラム・レベルが生産される。最近PPL Therapeuticsのバージニアの研究所ではαラクトアルブミンを産生するトランスジェニック牛が作製され、乳1リットルあたり2.4グラムの生産量とのことで、牛1頭からの年間生産量は数100キログラムになると予想されている。
 PPL Therapeuticsで臨床試験にはいったAATは嚢胞性線維腫の治療薬であるが、同社の試算では全世界の需要は2000頭の羊でまかなえるとのことである。また、豚 での製薬を試みている米国赤十字のHenryk Lubonが生研機構国際テクノフォーラム(1994年12月)で行った講演では、全米での血液製剤の必要量は、第VIII因子の場合は1頭、第IX因子では2頭、プロテインCでは80頭、人血清アルブミンでは9000頭のトランスジェニック豚でまかなえるという試算が紹介された(豚での医薬 品生産についてはLubonが共著者となった解説が参考になる:W. H. Velander, H. Lu bon & W.N. Drohan: Transgenic livestock as drug factories. Scientific Americ an, Jan. 1997、和訳、日経サイエンス)。
 乳からの医薬品抽出も比較的簡単な操作で行える。乳の中に含まれる主な蛋白はカ ゼインであるため、これを沈殿させ、簡単なクロマトグラフィーで精製すればよいとされる。
 医薬品蛋白の生物活性には糖鎖など、蛋白翻訳後の修飾が必要である。大腸菌で発現させた場合には、糖鎖が付加されないが、動物工場では糖鎖が付加されることも利点とみなされる。最近、PPL Therapeuticsが作製したトランスジェニック・ウサギで発現させたカルシトニンは、アミド化されていることが明らかにされた。乳の蛋白はアミド化されることはないが、乳腺は蛋白をアミド化する能力を持っていることが示されたといえる。

 2)病原体汚染の否定
 動物由来の病原体の汚染を否定することが重要である。現在、臨床試験にはいっているAATは羊由来、アンチトロンビンIIIは山羊由来である。羊や山羊が感染するおそれのある病原体のほとんどは、ワクチン品質管理のための生物製剤基準などに準じて対応できる。もっとも大きな問題とみなされるのはスクレ一ピーである。牛海綿状脳症によると推測される新型クロイツフェルト・ヤコブ病の出現で、この問題はとくに大きな関心を呼んでいる。
 PPL Therapeuticsの羊、Genzyme Transgenicsの山羊はいずれもニュージーランド産のものである。ニュージーランドはオーストラリアとならんできわめて厳重なスクレイピー対策により、スクレイピー・フリーになっている。すなわち羊の輸入はオーストラリア以外の国からは1950年代より禁止しており、1984年からは危険性の低い国から輸入するようになったが、最低3年間、島で隔離検疫して健康を確認したのち、その受精卵を国立の牧場の羊に移植するという方式をとっている。
 このほかに、スクレイピーによる危険性評価として、これまでにスクレイピー発症羊や山羊の乳からスクレイピーが伝達された事実がないこと、農場での厳重な検疫体制、乳からの医薬品製造の際のプロセス・バリデーションによる除去効率の確認などがあげられている。
 なお、米国食品医薬品局(FDA)は1995年8月に、トランスジェニック動物由来の医薬品の製造と試験のための留意点(Points to Consider)を発表している。

 3)開発の現状
 PPL Therapeuticsでは羊からの製品の第1号として嚢胞性線維腫の治療薬であるAATでの臨床試験が、英国の医薬品検査局の審査を通って40人の健康なボランテイアで始まっている。この病気はコーカシアンに多く、米国とヨーロッパでは年間55、000人くらいが、この薬での治療を必要としているという。米国では、Genzyme Tr ansgenicsが山羊で製造した血液凝固防止剤アンチトロンビンIIIの臨床試験を開始したといわれている。(注:最近、AATおよびアンチトロンビンIIIいずれも第2相臨床 試験が終了したとの発表がありました。)
 両研究所での開発は、いずれもマウスでのfeasibility studyから羊、山羊、豚、牛へと進められている。これらの開発段階にあるものとして公表されている主な医薬 品は以下のとおりである。  組織プラスミノゲン・アクチベーター、人血清アルブミン、大腸癌特異的モノクローナル抗体、βラクトグロビン、プロテインC、フィブリノーゲン、第IX因子などがある。
 導入遺伝子には乳腺特異的発現を示すβラクトグロビン・プロモーター(PPL Ther apeutics)およびβカゼイン・プロモーター(Genzyme Transgenics)が主に用いら れている。しかし、発現した医薬品蛋白が乳腺以外に漏出する可能性は否定できない。そのような場合に、トランスジェニック動物の生理機能に影響を与えるおそれがあるサイトカインのような生理活性物質は、開発の対象にはとりあげられていないようである。

3。異種移植Xenotransplantation
 前回に述べた動物製薬工場とならんで動物バイオテクノロジーの医療への応用として、めざましい進展をしているのは異種移植である。移植を希望する患者の数と比較して、脳死によるドナーの数は絶対的に不足している。そこで、考え出されたのが動物の臓器を用いることである。すでに人での臨床試験が可能な段階にまで進み、その一方で、これまでにない新しい大きな問題を提起している。開発の現状と問題点について解説することにしたい。
 歴史的に振り返ると、異種移植は19世紀終わりにはラットとモルモット、または猫とラットの間で試みられたことがある。20世紀初めには犬の腎臓の山羊への移植 が試みられた。しかし、近代医学として異種移植が取り上げられるようになったのは、1960年代に入ってからである。1964年には米国で人への異種移植がいくつか試みられた。そのひとつはチンパンジーの心臓の移植である。しかし2時間で移植心臓は機能を停止した。同じ頃、チンパンジーの腎臓移植が6人の患者に行われ、数日以内に患者は死亡したが、1名だけは9カ月生存した。また、ヒヒの腎臓移植が6名に行われたが、すべてが数週から3カ月以内に死亡した。その後、羊、豚、ヒヒの心臓移植が、米国、英国、南アフリカ、ポーランドで行われた(1、2)。
 ほかの臓器としては、腎臓ではチンパンジー、ヒヒ、豚のものが、肝臓ではヒヒと豚のものが移植されている。移植に用いられるのは臓器だけではない。糖尿病治療のために豚の膵臓のランゲルハンス島(インスリン産生細胞)の移植がスウエーデンで1994年に10名の患者に行われた。米国ではパーキンソン病治療のために、ドーパミンを産生する豚胎児の神経細胞の移植が、食品医薬品局(FDA)の承認のもとに12名のパーキンソン病患者で進行中である(3)。
 ところが、異種動物の臓器を移植すると、数分で免疫反応が起き始め、移植臓器はすぐに破壊され拒絶される。これは超急性拒絶反応と呼ばれている。人の臓器を人に 移植する場合は、同種移植であって、この場合には超急性拒絶反応は起こらない。1ー2週間後からリンパ球が移植臓器を攻撃しはじめるために、これは慢性拒絶反応と呼ばれている。この方はシクロスポリンAのようなすぐれた免疫抑制剤が開発され、克服できる。しかし、超急性拒絶反応の方は、これまでまったく解決手段がなかった。そのような状態で上に述べたような試みが行われてきたのである。 ところが、超急性拒絶反応の機構に関する研究の進展に伴い、それを遺伝子工学の技術を応用することで克服できる可能性が生まれてきた。
 超急性拒絶反応は、異種動物の組織成分に対する自然抗体と補体により起こる。このうち、自然抗体は主に糖鎖のひとつα(1-3)ガラクトース抗原であることが明らかになっている。人とサルではこの抗原が存在せず、豚などの哺乳動物に存在する。ここで超急性拒絶反応を回避する方法としてふたつの方法が浮かび上がってきた。ひとつはこの糖鎖抗原をもたない動物の作成、すなわちこの抗原を合成する酵素galact osyltransferase遺伝子をノックアウトした動物の作成である。これまで家畜ではES細胞が得られていないため、この方法は不可能であったが、前号で述べた体細胞クローニング技術により可能性が出てきた。
 もうひとつは、補体の反応を抑えることである。補体の反応は異物が体内に侵入した場合に働くだけでなく、自分の身体の組織にも働く能力を持っている。これは生体 にとって傷害を引き起こすことから、自己に対しては、その反応を抑える補体制御蛋白があって、自分の組織破壊は起こさないようにしている。これにはDecay accelera ting factor(DAF, CD59), Membrane cofactor protein(MCP, CD46)などがある。そこでヒト補体の働きを抑える制御蛋白の遺伝子を持った動物を作成し、それを移植用のドナーとして利用すれば、レシピエントの免疫系は、異種動物であってもそれを人と認めて超急性拒絶反応を起こさないだろうというアイデアである。超急性拒絶反応を乗り越えても、次に慢性拒絶反応が待っているが、こちらは、人の臓器の移植で蓄積されてきた経験から技術的に解決できる見通しがある。このアプローチでの研究がこの10年あまりの間にめざましい進展を示したのである。
 このアイデアに適した動物の選択は大体、次の4つの条件で行われた。まず、人と同じような大きさで、生理機能も似ているもの。次に、危険な微生物汚染がないもの、第3に充分の動物数が確保できるもの、最後にペットは除外するというものである。
 これらの条件にあったものは豚である。ヒヒの場合には危険な微生物のいることが分かっており、しかも数が限られている。世界で最大のヒヒの繁殖施設は、テキサス州サンアントニオにあるSouthwest Foundation for Biomedical Researchである。しかし、ここでも総飼育数は3000頭である。米国だけで年間4万人もいると言われている移植を必要とする患者の要望には応えられない。
 このような検討の結果、選ばれたのが豚である。豚は食用動物として感染症対策が古くから行われてきた。とくに研究用としてSPF豚が1950年代終わりから作られている。豚は家畜の中ではもっとも清浄とみなされ、また、体形、生理機能も人に似た面がある。しかも食用動物であることから、臓器ドナーとして使用するのに倫理的な抵抗も少ない。
 英国では、ケンブリッジ大学のDavid White(4)がImutran社を設立し、米国ではデユーク大学のJeff Platt(5)がNextran社を設立して、ヒト補体制御蛋白の遺伝子を導入したトランスジェニック豚による異種移植の研究を進めている。すでに、これらの豚の心臓や腎臓をマカカ属サルやヒヒに移植した結果、超急性拒絶反応の抑制が可能であることが示されている。
 サルでの試験がある程度、成功したことから人への臨床試験が技術的には可能とみなされるようになった。ここで問題になったのは、移植された臓器からの人へのウイルス感染である。長年、人の食用になっており、また豚から作った医薬品としてインスリンなどは人に注射されている。豚の心臓弁の移植は30年以上行われている。しかし、生きた臓器が人の体内で生着するという事態は、かって人類は経験したことがない。また、超急性拒絶反応を乗り越えたのち、今度は慢性拒絶反応を防ぐために、通常の移植の場合のように免疫抑制剤を使用しなければならない。ここで、どのような危険性があるのか、未知の状態である。
 獣医学領域では豚の衛生管理の立場から、豚の感染症については多くの研究が行われており、それらの病原微生物の検出や予防の手段についての研究も盛んに行われてきている。しかし、移植の場合は、さらに未知の問題を提起してきている。豚ではとくに病気を起こさないウイルスが人に危険をもたらすことはないか。とくに豚のレトロウイルスは人で癌を引き起こすおそれはないか。さらに極端なシナリオとしては、豚のレトロウイルスが人のレトロウイルスと組換えを起こして新しい危険なレトロウイルスになることはないかといった問題も提起されている。もしも、このようなウイルスが出現するとエイズの2の舞になるのではないかという議論まである(6、7、8)。
 この事態を受けて、異種移植に関する検討は急速に行われている。その主な例をあげると以下のとおりである。
 米国では、科学アカデミー医学委員会報告(1996年7月)、FDA/CDC/NIHガイドライン案(1996年9月)、FDA/NIH合同・異種動物間感染に関する会議(1997年7月)、FDA Points to Consider(1997年9月予定)、FDAガイドライン(1997年12月予定)があげられる。英国ではNuffield生物倫理評議会報告(1996年3月)と保健相諮問委員会報告(1996年8月)があいついで出された。国際的にはWHO原案(1997年)、OECD原案(1997年)がある。
 もっとも詳細な検討が行われているのは英国のNuffield生物倫理評議会報告と、ロンドン・キングスカレッジのIan Kennedy教授(医事法および倫理が専門)を委員長として結成された保健相の諮問委員会(Kennedy委員会)報告である。両報告は基本的には同じ結論であるため、Kennedy委員会の結論と勧告の要点を簡単に整理してみる。
 まず、倫理という用語を科学およびバイオテクノロジーの新しい進展についての道徳的判断とみなし、異種移植がドナー臓器不足解決として倫理的に受け入れられるかという基本姿勢をとっている。そして倫理的に受け入れられるという判断は、患者にとって利益を与える、またはその可能性が期待できるという点に依存している。このような基本的判断の方式を決めたことが、遺伝学、弁護士、道徳哲学、実験動物コンサルタント、ジャーナリスト、免疫学者、移植医という構成の委員会が、8カ月あまりの期間にきわめて有効に議論を進めることのできた背景であろう。
 倫理的に受け入れられるかどうかを、どのような条件でも受け入れることはできないか、それとも、ある条件で受け入れられるとしたら、その条件はなにかという設問で検討を行っている。
 具体的には、現在の知識にもとずいて、生理学、免疫学、感染の3つの側面から問題点を整理している。
 生理学的側面では、移植された臓器が人の体内で機能しなければ、移植の意味はなくなるというとらえ方である。そして、心臓と肺は機械的な臓器として機能するかもしれないが、腎臓、肝臓、膵臓の細胞などは疑問が残るとしている。 免疫学的側面では超急性拒絶反応の回避の面である程度の成功が認められると評価している。問題は感染面であり、これについてはウイルスによる危険性がもっとも大きいという結論になっている。
 これらの検討内容を総合した結果、現時点では知識が不足しているため、人への臨床試験は受け入れられないと結論し、研究の進展を評価して臨床試験の可否を検討するための常置委員会を法律によって制定することを勧告している。微生物感染の危険性を除外または最小限度に抑えることができれば、異種移植は倫理的に受け入れられる、しかし、既知のウイルスが臨床試験で安全かどうかについての知識は現時点では不十分であり、さらに研究を積み重ねる必要があるという判断である。
 この勧告にしたがって保健相Stephen Dorellは1997年1月に、異種移植は原則的には受け入れられるが、動物の病気が人に伝達されないよう研究を進めることを決定した。臨床試験の一時的な禁止措置である。いつゴーサインがでるかは、安全確認に関する研究の進展にかかわっている。ところで、この保健相の談話に対して、英国のふたつの大新聞がまったく異なる見出しで報道した。デイリイテレグラフは豚の心臓移植にゴーサイン、ロンドンタイムスは豚の心臓移植が禁止されたという見出しである。内容は同じなのだが、このように正反対の受け止め方がされたのは、この問題の持つ複雑な側面を反映したものかもしれない。
 異種移植に伴う感染の問題は、移植を受けるレシピエントへの危険性だけでなく、場合によっては医師、看護婦などの医療従事者、家族といった周辺の人に対する危険性、さらに一般社会への病原体の拡散の危険性を検討することも求められている。
 移植でなければ治癒されない病気の解決の決定的な手段となる可能性が期待される異種移植は、未知の感染症の伝播を起こすかもしれないという、人獣共通感染症にかかわる新しい問題を提起しているのである。そして、これまでは動物の健康管理を目的としてきた獣医微生物学が、医学との境界領域でその専門知識と技術面での協力を求められている。

文献
1. Bach, F.H. (1996): Xenotransplantation. In A history of transplantation immunology (ed. L. Brent) pp. 377-402.

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8. Isacson, O & Breakefield, X.O. (1997): Benefits and risks of hosting anim al cells in the human brain. Nature Med., 3, 964-969.


Kazuya Yamanouchi (山内一也)

連続講座:人獣共通感染症