人獣共通感染症(第18回)9/23/95
トランスジェニック動物の産業利用


 この題は人獣共通感染症とは間接的な関連しかありませんが、たまたま霊長類フォーラム(9月16日)でトランスジェニック豚の心臓を用いたサルへの臓器移植のニュースが紹介されましたので、その背景の解説もかねて、この分野の進展の現状を簡単にご紹介しようと思います。

 トランスジェニック(Tg)マウスが疾患モデルや遺伝子の生体での機能の解明といった基礎医学、分子生物学の研究の重要な研究手段になっていることは今更説明の必要はないと思います。一方で、Tg動物を産業に利用する動きが活発です。対象となる分野は現在のところ、医薬品などの動物工場と移植用臓器の提供のふたつです。

1。動物工場
 医薬品蛋白の遺伝子を組み込んだ動物を作成し、その乳、血液、尿の中に医薬品を産生させるものです。すでにアルファ1ーアンチトリプシン、組織プラスミノーゲンアクチベーター、アンチトロンビンIII、第IX因子、第VIII因子などが羊などの乳から、また血液中でヒトヘモグロビンの産生が報告されています。この中でとくに有名なものはアルファ1ーアンチトリプシンを乳の中に産生する羊です。これは1リットルの乳あたり30グラム以上を産生します。これは乳の中の総蛋白量の50%に相当します。そして天然のものと同様に糖鎖がついていて、生物学的活性を示します。 
 半月程前に英国大使館で、英国のBiotechnology and Biological Research Council (BBSRC)、これはScience and Engineering Research CouncilとAgricultural and Food Research Council (AFRC:日本の農水省の農林水産技術会議のようなもの)が昨年合併したものですが、その理事長のトム・ブランデルTom Blundell教授の講演会がありました。彼はケンブリッジ大教授として現在も酵素の結晶解析の研究ですぐれた成果を発表しています。この講演のなかで彼はAFRC の研究の成果が市場と結び付いた最適の例として医薬品を産生するTg羊(名前はトレーシーTracyだそうです)をドイツの製薬会社に1000万ポンド(16億円)で売ったということを話していました。おそらくアルファ1ーアンチトリプシン産生羊のことと思います。

 ほかのTg動物でのヒト蛋白の産生量(1リットルあたり)は以下のとおりです。
 アルファ1ーアンチトリプシン(ウサギ)30グラム
 第IX因子(羊)25マイクログラム
 組織プラスミノーゲンアクチベーター(山羊)3グラム
 アンチトロンビン(山羊)6グラム
 プロテインC (豚)5グラム
 インターロイキン2(ウサギ)0.4ミリグラム
 
 昨年12月に生研機構が行った国際テクノフォーラムで米国赤十字のプロジェクトリーダー、ヘンリク・ルボンHenryk Lubon博士がTg動物の産業利用の状況について講演をされました。彼はとくに豚の有用性を強調していました。その理由として、コストが安い、妊娠期間が短い、受精卵の操作が容易である、乳の中への蛋白産生効率が高い、系統の選抜が容易といった点をあげていました。そして彼によれば医薬品蛋白の全米での年間使用量がTg豚を使えば第VIII因子は1頭、第IX因子では2頭、プロテインCでは80頭、ヒト血清アルブミンは8640頭で供給できると述べていました。
 実際に供給可能になるのは臨床試験などいろいろな要素がありますが、ルボン博士の予測では、第VIII因子はすでに供給可能な段階、第IX, VII因子、アルファ1ーアンチトリプシンはこの2、3年以内とのことです。

2。移植用臓器

 冒頭で述べた豚の心臓による移植実験はヒトの補体制御遺伝子を導入したTg 豚を用いたものです。この研究のリーダーであるデービッド・ホワイトDavid White博士(ケンブリッジ大学外科の講師でベンチャー・イムトランImutran社研究部長)の講演会が昨年5月31日に生研機構主催で開かれております。その際のメモをもとにこのTg豚について述べてみたいと思います。ホワイト博士は移植の際の免疫抑制剤として用いられているシクロスポリンの効果についての基礎的研究で有名です。最初に移植用臓器の提供動物としてTg動物の研究を始めたのは10年前とのことです。最初は後で述べるDAF遺伝子導入Tgマウスの実験でした。
 同種移植と異なり異種移植では超急性の拒絶反応が移植された臓器の拒絶の最大の原因とされています。
これには抗体と補体がかかわっています。異種動物組織に対する抗体が自然抗体として存在していますので、対策としてはこの抗体を除去するか、補体系をだますことが解決の手段として考えられます。これまでに自然抗体を除去する試みがいくつか行われてきていますが、成功していません。そこで補体系をだます方式が採用されました。
 異種移植用の動物の候補選定にあたっては入手が容易で数が確保でき成長が早く、臓器のサイズが人に近いこと、さらにペットではないことなどが条件になりました。これに相当するものとして豚、羊、子牛があります。チンパンジー、猫、犬は不適当と判断されました。さらに解剖学的特性が人に似ていることから豚が最終的に選ばれました。
 次に導入する補体遺伝子です。補体系は血液中に存在する20数種の蛋白が古典経路または第2経路を介して活性化されます。この経路は複雑なためにとても、ここで説明できる内容ではありません。興味のある方は免疫学の教科書をご覧ください。ここではTg豚に関連ある部分だけをとりあげます。
 いずれの経路でも中間段階として補体第3成分C3を活性化するC3転換酵素が形成されます。これは非常に強力な活性化酵素であって、増幅回転反応を起こして、C3がなくなるまでC3を分解しつづけます。この反応は自己の細胞の上でも起こりますが、補体の活性化が無制限に起こると、補体系の溶解反応によって自己の細胞も最後には破壊されてしまいます。それを防ぐためにC3転換酵素の産生を抑制する膜蛋白があります。これが膜蛋白制御因子であって、その主なものにDecay accelerating factor (DAF)とMembrane cofactor protein (MCP)があります。これらの遺伝子を豚に導入したわけです。すなわち人の補体制御因子を豚の組織で発現させることにより、人の補体系をだまして超急性拒絶反応を阻止しようという作戦です。
 私のメモではDAFのメッセンジャーRNAが発現して蛋白の産生が確認された豚が21頭できているとなっています。Tg動物では各個体で遺伝子の挿入部位やコピー数が異なりますから、21系統の動物ができたことになります。そして、その発現は肺、肝臓、心臓で見られています。すなわち、これらの臓器は人の補体系をだましうると考えられます。
 彼らが検討しているのは今度のニュースにもあった心臓移植、ついで肺移植です。肝臓は補体の産生臓器でもあるため、そこで産生される豚の補体の影響も考え、肝臓移植への利用は考えていないとのことです。
 移植用の豚の開発は米国でもデユーク大学のジェフリイ・プラットJeffrey Platt博士がネキストランNextran社(豚の臓器による異種移植研究のために設立されたベンチャー)と共同で行っております。彼らも補体制御遺伝子を導入しています。ここでは肝臓移植が当面の課題のようです。当初は肝臓移植でドナーがみつかるまで代用臓器として使用し、将来は肝臓、心臓、肺、腎臓の移植を目指しているとのことです。今年の7月にはこの豚の肝臓を用いた臨床試験の許可がFDAからおりたと伝えられています。
 また、別のステップとして主要組織適合抗原系MHCクラスI 遺伝子を破壊したいわゆるノックアウト豚の作成も検討中とのことです。ただし、そのためには豚の胚性幹細胞の樹立という難しい問題があります。これは日本も含め世界各国で研究が行われていますが、まだ成功例は私は知りません。

3。異種移植における動物由来病原体による感染の危険性

  豚の場合、人への危険性がある病原体は非常に限られています。ヒヒなどサル類では既知のウイルスが多いだけでなく、未知のウイルスの可能性もあります。これに対して、豚では食用動物としての健康管理の長い経験があり、ウイルス、細菌、寄生虫などについての知識の蓄積も豊富です。少なくともウイルスでは日本脳炎ウイルスの増幅動物となることを除くと、直接、人獣共通感染症の原因になっている例は思いつきません。このほかに豚にはサイトメガロウイルスの感染がかなり存在して胎児の死亡の原因になっているという報告が米国でありますが、人への感染性はわかりません。
 豚では1950年代からSPF豚の作出が行われていました。私も1961年からカリフォルニア大学でSPF豚を用いた豚エンテロウイルスによる脳炎の発病機構の研究を行っていました。SPF豚は妊娠豚から子宮切除で子豚を取り出し、清浄な環境で育てたものです。現在ではSPF豚は食用にも供されています。したがって、豚の場合、微生物学的コントロールは家畜の中でも一番進んでいるとみなせます。
 異種移植に伴うzoonosis についてはTransplantation Vol. 57, p. 1-7, 1994にXenotransplant-associated zoonosesという総説がありますが、中で取り上げられているのはすべてサル由来の病原体ばかりで、豚についてはサイトメガロウイルスが簡単に触れられているだけです。

 

Kazuya Yamanouchi (山内一也)




-->連続講座:人獣共通感染症へ戻る