公益社団法人日本獣医学会 The Japanese Society of Veterinary Science

獣医学への期待 -ニホンジカ研究の現場から-


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獣医学への期待 -ニホンジカ研究の現場から-

小泉 透(森林総合研究所九州支所鳥獣研究室)

(1)はじめに

獣医師や獣医学研究者が野生動物に関わる機会はひと頃に比べ非常に増えている。都道府県の委嘱を受けたりボランティア団体に参加するなどして多くの獣医師が野生動物の救護に関わっている。野生動物を扱う専門部会を設置した獣医師会もあると聞いている。各地の動物園でも絶滅のおそれのある野生動物を中心に種の保存を目的としたさまざまな取り組みを始めている。野外調査でも生体捕獲の際の麻酔管理や死亡個体の分析などの場面で獣医学は大きく貢献している。ニホンカモシカはその代表的な例で、射殺個体がシステマティックに回収され数多くの獣医学的な知見が得られた。現在、ニホンジカ、ツキノワグマ、ヒグマなどで同様の取り組みが行われており成果が期待されている。
1995年には、野生動物の種の保存に関わる幅広い学術の確立を目的として「日本野生動物医学会」が設立された。この学会は学生会員の割合が高いことと(筆者も含め)獣医学分野以外の会員が多いことに特徴がある。これは、野生動物の種の保存を実効あるものとするためには獣医学だけでなく、野外での生態や生息環境、さらに野生動物を取り巻く社会経済条件などを含めた学際的な研究を開始する必要があることが認識され始めたことを示している。
1999年には「鳥獣保護及び狩猟に関する法律」が改正されて「特定鳥獣保護管理計画制度」が創設された。この制度では科学的知見をベースにして計画的な個体群管理を行うことが明確に規定されており、「科学的知見」を得るための体系と体制づくりが早急に求められている。
ここでは、野生動物をめぐるこれらの動きを紹介しながら、野生動物研究では既存の専門領域を越えた連携が求められており、それを基盤として野生動物学とも言うべき新たな体系を構築する必要が出てきていることを報告したい。

(2)減少する野生動物

1990年代に入って生物多様性の保全に対する社会的な関心が高まってきた。1992年にリオデジャネイロで「環境と開発に関する国連会議」が開催され、日本を含め157カ国が生物多様性条約に署名したことが直接の契機となっているが、この背景には野生生物種の急速な滅少が世界的に危惧され始めたことがある。1991年に環境庁は「日本の絶滅のおそれのある野生生物」(日本版レッドデータブック)を公表した。これは国内で生息または生育記録のある種の内、絶滅のおそれのある種を絶滅種、絶滅危惧種。危急種、希少種、地域個体群の5つのカテゴリーに区分したものである。絶滅種は我が国ではすでに絶滅したと考えられる種または亜種、絶滅危惧種は絶滅の危機に瀕している種または亜種、危急種は絶滅の危険が増大している種または亜種。稀少種は存続基盤が脆弱な種または亜種、地域個体群は保護に留意すべき個体群、と定義されている。この中で、鳥類と哺乳類では187種と13の地域個体群が絶滅のおそれがあると記載されている。これは日本産の鳥類、哺乳類のそれぞれ25%、40%に相当する。日本哺乳類学会も環境庁とほぼ同じ区分に基づいて、日本産哺乳類の約半分で何らかの保護策が必要となっていることを指摘している。
各カテゴリーの定義は国際自然保護連合(IUCN)の定義に準じているが、日本版レッドデータブックでは地域個体群をカテゴリーに加えている点が新しい。全国的には相当数生息しているような種でも地域によって絶滅の危険が高い場合には別途に個体群(集団)として保全する、という考え方は高い先見性をもち、その後の政策の中にさまざまな形で活用されている。
1993年には生物多様性条約に対応した国内制度の整備の一環として「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律」(種の保存法)が施行された。種の保存法は稀少野生動植物種を指定して個体の捕獲や譲渡等を規制している他に、国内稀少野生動植物種については「生息地等保護区」を指定して生育・生息環境を保全することができる。林野庁も種の保存法の施行に連動して、1993年から国内稀少野生動植物種の個体の保護・保全と生育・生息環境の維持・整備を目的とした「稀少野生動植物保護管理事業」を開始している。また、これとは別に1989年に保護林制度の再編、拡充を行い。稀少化している動物の繁殖地または生息地、他に見られない集団的な動物の繁殖地または生息地、その他保護が必要と認められる動物の繁殖地または生息地、などの要件を満たす区域(国有林)を「特定動物生息保護林」として保護することとしている。1998年現在、全国で30カ所、15、342haが特定動物生息保護林に指定されている。

(3)増加する野生動物

1999年には「鳥獣保護及び狩猟に関する法律」が改正されて「特定鳥獣保護管理計画制度」(以下、特定制度とする)が創設された。この制度は都道府県知事が特定の鳥獣を指定し、独自の基準に基づいて個体数を管理するものである。西中国山地や紀伊半島のツキノワグマのように個体数が減少して地域的に絶滅のおそれの生じている地域個体群が指定され保護措置が取られることが期待される一方、個体数が増加して農林業被害や一部の地域で生態系のかく乱を引き起こしているニホンジカでは、これまで以上に強い個体数減少措置が取られることが予想されている。
カモシカほど刺激的に取り上げられることはなかったが、1960年代後半からニホンジカによる林業被害は徐々に増えてきている。1996年の全国の森林被害面積は5、360haでこの20年間に約5倍に増え、1989年以降いわゆる「獣害」の第1位を占めている。地域別には九州の被害面積が最も広く、次いで近畿、北海道、関東の順となっている。近畿、関東では被害面積は徴増であるが、九州では被害が急速に拡大しており被害面積はこの5年間で10倍以上に増加している。北海道は牧草地・畑地の被害を合わせると1997年度の被害金額が50億円を越える激害地となっている。
北海道では1978年以降ほぼ6年ごとにアンケートによる分布調査を行っており、この20年ほどの間にニホンジカは北海道東部から中央部、西部に急激に分布を拡大し、潜在的に分布可能なすべての地域に生息し空間的にはほぼ満杯状態になっている。九州でも1995年に九州民有林・国有林シカ対策担当者連絡会が既存資料を基に分布図を作成した。これによると、九州では北海道と異なり中央山系を中心に中山間地域での分布の拡大が顕著で、これが被害面積の急激な増加に関係しているのではないかと考えられている。各都道府県ではすでにニホンジカ保護管理計画を策定し、メスジカを含めた狩猟や大規模な有害鳥獣駆除事業を開始している。
ところで、特定計画が従来の有害鳥獣駆除や狩猟と大きく異なるのは、個体数を減らす措置を取る場合でも「大雪などのリスクを見込んでも個体群が安定的に存続できる水準」を下回らないように管理することを求めている点である。北海道ではこれを「許容下限水準」と呼び、個体数が1994年3月時点の個体数(約12万頭と推定している)の5%以下になった場合や大雪などによって許容水準を割り込むことが予想されたときには禁猟措置を取ることを定めている。乱獲と禁猟の2つの選択肢しか持たなかったこれまでのニホンジカ管理が、個体数の水準に応じて取るべき措置を弾力的に変更するような管理方式に改めたことは大きな前進だといえる。北海道以外でこのような下限水準を求めた例はないが、少なくとも積雪地域では同様な考え方が適用できそうである。一方、雪の降らない西日本では環境の大きなゆらぎ(カタストロフ)によって個体群が絶滅した報告はなく、下限水準をどのように定めるかが大きな課題となっている。気になる報告はある。それは瀬戸内海の小豆島で1875年に「獣疫」が流行してニホンジカのほとんどが斃死した、というものである。「獣疫」が何を意味するのか、個体数はどのように減少していったのか、は不明であるが、ニホンカモシカがパラポックスウィルスに感染して死亡している例もあり、西日本のニホンジカの病態調査は個体群管理の上で重要なチェック項目になるかもしれない。
個体数の水準に応じて管理方針を変更するといっても、個体数がどの水準にあるかがわからなければ方針を変更することができない。そこで、特定計画では計画期間中は個体群の動向を監視するモニタリング調査を継続的に実行し、計画の実効性を評価して管理方針の意志決定にフィードバックさせることを求めている。この考え方はフィードバック管理または適応的管理と呼ばれている。野外の個体群は不確実で予測困難な変動をすることが多いので、ある特定の理論やモデルを使って長期間管理することはかえって危険である。そこで、個体群がどのように変化したか、その結果を読み取って次に行う操作法を決めようというものである。管理の初期段階には個体群に関する情報が少ないので粗放にならざるを得ないが、結果の読み取り方を誤らなければ。管理の集約度は情報の蓄積量に比例して高まっていく。この結果の読み取りがモニタリング調査であり、特定計画が「科学的な保護管理を推進する」と述べている「科学的な」中核をなす。個人的には「照査法」という言葉が適しているとも思うが、それはさておき当然結果も前もって予測することは困難なので意志を決定する側にも柔軟で素早い対応が求められる。方針は時に大きく変わるので、関係者の合意を形成するプロセスも重要である。
モニタリング調査は大きく個体数調査と動態調査に分けられる。広域を一斉に調査して個体数を推定する調査は人員と予算の関係から毎年実施することは不可能である。そこで、個体数調査を数年ごとに行い、途中年は個体数の増減を示す指標を調査して、対象とする個体群を継続的にモニタリングすることが考えられている。
積雪地域では雪がある(シカを発見しやすい)、シカが越冬地に集合する(シカを数えやすい)ことから航空機を用いた目視によるカウント調査が普及しつつあり、大型の赤外線スキャナを併用して目視による見落としを低くするなどの試みも行われて比較的精度の高い結果が得られている。一方、積雪のない西日本ではフンを用いた個体数推定が一般的である。この方法は調査プロット内のフン数、単位時間あたりのフンの消失率、単位時間あたりのシカの排泄フン数、などのパラメータを用いて個体数を推定するため、それぞれのパラメータのバラツキに影響されて個体数の推定誤差がかなり大きくなってしまう。このため、フン法の改良とともに新たな個体数推定方法を開発する必要が出てきている。
動態調査には現在CPUE(単位努力量あたりの捕獲数、l猟期期間中に捕獲された総数を同期間中に出動したのベハンター数で割った値)を指標として用いることが提案されているが、同時に野外調査でシカ個体群の示す変化を直接読みとる方法を開発してクロスチェックする必要がある。さらに、動態調査では単に数的変動をモニタリングするのではなく、変動を司るメカニズムや要因にまで踏み込んで解析することが望ましい。要因分析を含んだ動態調査を確立するためには、従来の生態学的な手法だけでは限界があり、生理解剖、病理など獣医学研究者の参加が期待されている。特に、西日本では当面個体数推定値が大きな幅をもたざるを得ないため、精度の高い動態調査方法の確立が緊急の課題となっている。

(4)個体群を保護管理する科学

日本版レッドデータブックの公表から特定鳥獣保護管理計画制度の創設にいたる一連の流れをまとめると、種の保全の基本が地域個体群の存続にあることが理解されてきた、生息環境を確保する重要性が認識されるようになった、フィードバック管理を基本とすることによって対象個体群の不確実な変動に対応できる制度を導入した、など原則部分に長足の進歩が見られる。しかしながら、実際の計画を支える技術にはなお解決すべきいくつもの問題が残っている。フィードバック管理を説明する際に「走りながら考える」という表現がよく用いられるが、ゴールは分かっていても走り方が分からないままに「走り手」が倒れてしまうようなことにならないようにしなければならない。理念と技術の間の大きなかい離を早急に埋める努力が必要となっている。
個体数推定、個体群モニタリング、生命表の作成、環境利用など、これから想定されるさまざまな調査の中心になることが予想される方法にマーキング法がある。これは、動物に標識を付けて放逐しその行動を迫跡するもので、記号放ちく法、標識再捕法、放飼回収法、捕獲再捕獲法などとも呼ばれる。標識の定義を広くとらえれば、小型発信器を組み込んだ首輪を付けて位置を追跡するラジオテレメトリー法もマーキング法の一種である。最近はGPS装置を組み込んで位置を自動記録する首輪が(まだ非常に高価ではあるが)市販されている。また、脱落の心配のない標識として外部からの信号に自動的に信号を送り返すトランスポンダーを皮下に埋設する方法も開発されている。標識個体を再捕獲せず、赤外線センサーの付いた自動撮影装置を用いて出現頻度を記録する方法も提案されている。再捕獲の手間が省けるだけでなく、トラップシャイと呼ばれる再捕獲率の低下を防ぐことができる。さらに、フンや体毛から抽出したDNAを個体識別用の標識として用いる方法も考案されている。これだと個体を捕獲する必要がないので、絶滅のおそれのある種や個体群にも応用できる。DNA法以外の方法では少なくとも一度は生体捕獲(生け捕り)するので、捕獲時に目的に応じて材料を採取することができる。中でも、生理、繁殖、病理、寄生虫、に関する情報は個体群変動に関わる要因を考える際に重要になる。欧米では水鳥やシカ類を対象に毎年大規模な生体捕獲が行われ、多くの個体に標識が付けられて保護管理の基礎データが収集されている。日本ではこうした調査はごく限られた地域で実施されているだけだが、今後さまざまな地域にマーキング法を中心とした調査体系を確立していくために、生体捕獲時に必要な化学的不動化(麻酔)や保定、さらに捕獲個体の生体内情報を読み取る知識と技術をもった獣医師や獣医学研究者の参加が不可欠となっている。
この他に、事故や疾病による斃死個体や狩猟や有害鳥獣駆除で捕殺された個体を用いて個体群を解析する方法がある。この方法の利点は、条件が整えば新鮮なサンプルを短期間に大量に収集できるところにある。生体捕獲の場合より多くの部位から採材することができるのも利点の一つである。研究者一行政担当者一ハンターの3者間にネットワークが作られ、捕殺個体から分析用の材料がきちんと提出されるような仕組みができあがっている地域が徐々にではあるが増えてきた。ニホンカモシカでは捕殺個体がシステマティックに回収され数多くの獣医学的な知見が得られた。これらは生態学や行動学の成果と相互に補完させることによりニホンカモシカの生物学を飛躍的に発展させた。調査デザインの完成度が非常に高く、研究成果報告書の「ニホンカモシカの繁殖、形態、病態および個体群特性に関する基礎的研究」は現在でも獣医学研究者が野生動物を扱う際の参考になると思われる。死亡個体の齢データの扱い方についてはCaughley(1977)の“AnalysisOfVertebratePopulation"に詳しく解説されている。

(5)おわりに

以上、野生動物をめぐる最近の動きを足早に見てきた。ここで改めて強調したいのは、種を保存するためにはそれを構成する地域個体群を長期に安定して存続させることが不可欠であること、個体群の存続を支える科学と制度にはこれまでにない程強い実効性が求められていること、である。野生動物研究に対する獣医学のアプローチには「個々の環境行政上の依頼や社会的要請などに対応してきたものが主であり、断片的、部分的で、どちらかと言えば、受け身的であったと言えるのではないだろうか」という指摘があるが、これは野生動物の生息環境を保護管理すべき分野である林学にもあてはまる。戦後、森林学より木材生産学として発展してきた林学は、しかしながら、現在その教育研究目的を大きく転換させる必要に追られている。先に紹介した地球サミット以降、ヘルシンキプロセス、モントリオールプロセスと呼ばれる作業部会の中で「持続可能な森林管理が行われているかどうか」を評価する国際的基準のlつに「生物多様性が維持されていること」という項目が盛り込まれたためである。これに対応して、森林総合研究所でも生物多様性の維持を重点的に推進すべき研究課題のlつとした。また、カリキュラムの大幅な再編整備を行っている大学も多いと聞いている。野生動物保護管理学の構築を志す学生や大学院生が輩出されるようになることを期待している。